（７２３）

　人間の視覚系は壁に掛かった額のほんのわずかな傾きも見分けられる精密さを持っていつつ、シンプルな錯覚も起こしやすいという複雑さを持っている。私には相反する世界観を持った２人の頑固な友人がいる。１人は論理的で科学志向の男性で、もう１人は直感的で神秘主義者の女性だ。前者をＡ、後者をＢと呼ぼう。知覚される世界だけが現実として扱うに足るとする科学好きのＡに対して、オカルト好きのＢはそれを判ずる人間の知覚そのものの錯覚は避けられないと主張する。ある日ＢはＡに図１に示したような絵を見せて、どちらが長いかと問うた。これは目の錯覚を表す使い古されたサンプルだといわんばかりにＡは即座に「同じ長さだ」と言った。そしてＡは「こんな目の錯覚を事実だと思い込んで、神秘的な体験をしたと吹聴しまくるのだ。しかも自分では嘘をついていないと確信しているからなおさらたちが悪い。」云々とのたもうた。

　それを聞いていたＢは黙って図を指差し、定規を使って下の図２のように２本の縦線を引いた。その線は上の横線の方が実際に長かったことを示していた。錯覚を示すありきたりのサンプルだと直感的に思い込み条件反射的に反応したＡと、それを論理的に理解させようとしたＢ。これは立場を逆にしても話の内容には大差はない。むしろその後もこの２人が不仲にならず、相変わらず相手に呆れつつも友人付き合いしていることの方がパラドクスかも知れない。彼らは互いに一目置きつつも迎合せず、相手に怠惰な部分が見えると容赦せずにそこを突く。しかし絶対的優勢であっても相手の息の根を完全に止めることをせず、常に逃げ道を作っておいてやる。Ａは「生かさず殺さずいたぶってるのさ」と言い、Ｂは「脳硬化症患者への一片の慈悲よ」とのたまう。真剣に遊んでいる良い関係なのだ。その絶妙なバランス感覚には一目置かざるを得ない。もっとも私は２人とも最終的には自分の方が絶対正しいと思い込んでいるところが理解しがたいのだが。

　オカルト好きのＢはパラドクスについてこう言う。「真理はパラドキシカルな表現でしか表せない。」しかしそう言いきった時点から今度は表現する時にパラドクス依存症になってしまう。パラドクスと見えるものも１つ１つ解いていく姿勢もなくてはやはり止まってしまう。論理的表現好きのＡは言う。「論理を持って論理を超える。パラドクスの真中にその解がある。」Ａは以後同様の問題の裏をかくバリエーションを出されても、「全て長さは違う。どっちが長いか目では判断できなくても、全く同じ長さであることはありえない。」と言う戦略を用いるようになった。Ｂは「変われば変わるだけ同じままだ。」とパラドキシカルなフランスの諺で応じている。２人は案外良いコンビだ。