(KIN199)#722

（７２２）洗脳、学習、メタ学習

　「あらゆる教育は洗脳である」というパラドキシカルな表現がある。一方「教育の本質とは教えられたことをすべて取り去った後にそれでも残るものである」という言明もある。もしくは「真の教育とは自らの力でその与えられた教育を超え行くようにせしめることである」とも。これはあたかもＤＮＡのプログラムに対する自己書き換えのメタプログラムの関係にも似ている。対象言語とメタ言語、対象論理とメタ論理の関係を見てきたが、教育にもそれ自身を超えるためのメタ教育という概念が与えられる。そして教育のないところでも学習は成される。

　よく行く禅寺の駐車場に野良猫が住みついている。その茶トラの猫は小さい体に似合わず毎年の春秋に必ず小猫を産む。寺の奥さんが不憫がって毎日餌をやる。夕方の餌の時間になると所定の場所で目をぱちぱちさせながらじっと待っている。しかし絶対に人に体を触らせようとはしない。仔猫の時によほどひどい目にあったのだろう。自分の仔猫にも同じように躾ている。これは死ぬまで変わらないのだろうか。生命に関るほどの状況下での学習。条件反射的刷り込みとその拡大再生産。人間もまたその獲得された要素はなかなか変わらない。ポテンシャルが新たな領域への峠を越せないのだ。あの猫は今後とも人間にその体を触らせることはまずないものと思われる。撫でさせもしないで可愛くない…というこれまた人間側の条件反射的反応とあいまって、餌にありつく確率はずっと低いままなのだろう。しかしそれでも私はいつかあの猫を撫でることができる日がくることを夢見ている。

　テレビなどで北朝鮮の人々や新・新宗教信者の映像を見る時、あの自由意志の感じられない相似形の表情に「洗脳」という言葉が感じられる。あきらかにどこか尋常でないということが直観的に見て取れる。しかしこの映像すらもパラドキシカルに私たち自身に撥ね返ってくる。テレビそのものも充分洗脳の道具となりうるのだが、まあそれはさて置くとして、外国人から見れば日本人にもまた、同様の異様さや不気味さを感じることがあり得るのではないかという想像力を、私たちはまだ働かせることができる。私たち日本人は１人１人自由な発想ができると主張しても、北朝鮮人民やオウム真理教の信者もまた同じことを言うだろう。

　過去の日本の為した愚行を現在から見て非難するのはたやすい。しかし未来から現在の私たちが同じように笑われないためにはどうしたらいいのだろう。また現在の日本人でも海外から日本を見ると、やはり何か大きな洗脳と表現しても良いくらいのコントロール下にあるという感覚を受けることがある。だからと言ってアメリカ合衆国やイギリスや、チベット自治区やインドネシアのバリ島から見れば、それが正しい見方であるとは限らない。いやむしろそれはそれでまたそれなりの大きな偏りがあるに違いない。

　しかし外国語を学んだ時始めて日本語という母国語に対する見方と感じ方が変容するように、まずは異なる見方や別の視座からの世界観があるという事実を知ることが必要なのだろう。そしてその中から世界を見てみること。それに取り込まれてしまえば元もこもないが、どちらにも偏りすぎずに２つ以上の世界の見方を知れば、そこには自ずとそれらの見方から等距離の視座…つまり世界の見方そのものに対する視座が立ち上がる。謙虚というキーワード。萎縮や無私ではない。世界に対して謙虚になるとは、自分自身に対して謙虚になるということと等価なのだ。

　これは日本人というアイデンティティに対してだけではない。私と他者にしても、地球と宇宙にしてもフラクタルな構造をしている。私を私以外の視座から見直すことや、地球を地球以外の視座から見直すこと。自分の人生観も生命観も環境問題も何もかも、それを否定することなく別の視座からも見直すことができるのだ。自力でできなければ、学習すれば良い。「教えなくてはならない人間に教えようとするのは無駄である（Ａ.クロウリー）」というパラドクスがある。また「自主的になれ！」という一言すらもパラドクスだ。しかしパラドクスを恐れて避ける必要はない。その真正面に徒手空拳のまま立ちはだかる勇気があれば良いのだ。教育が洗脳であるとしても、いずれその洗脳自体を自ら解く力を励起発動させてくれるのもまた教育なのだ。これがもちろん洗脳の勧めでないことは自明だろう。

　真の教育者は教育しながら、実は世界中から学んでいる学習者でもある。知識や経験の質や量は違っていても、本質的には全ての者が教師だと知っているのだろう。そしてさらに言えば全ての人が教育者なのである。存在するだけでも周囲は変わる。いくら多者に影響を与えたくないとひとりきりで部屋に篭ったとしても、それでも周囲はそれにすら影響を受けそして何かを学ぶ。また真の教育者はどんな人にも学ぶべきものがあることを知っている。人にものを教える時、これは洗脳なのだと悩むことはない。人からものを学ぶ時、自らのメタ学習能力を信じて、素直に学習すれば良い。メタ教育とは教育内容の中に、自らそれを超えていく種を埋め込んでおいてあげることだろうか。メタ、メタとまるで若い子たちが「超すごい」とか「超ムカつく」と言うように安っぽくつけて気に障ると言う人もいるかもしれないが、それまでの表現では足りないので付ける「超」とこの「メタ」は似たようなものなのだ。

　ところで学習に対するメタ学習とは実際どんなものなのだろう。グレゴリー・ベイトソンがジョン・Ｃ・リリーの元でイルカとのコミュニケーションについて研究していた時の美しいエピソードを伝えてくれている。イルカは１つの芸を人前で披露すると褒美として餌を与えられていた。普通の学習だ。そして次に芸を学ぶということ自体について学ばせようとした。メタ学習である。１度報酬を与えた動作には、次の回にそれを行っても報酬は与えられず、新しい動作を行うことが正解となるのだ。被験者となった雌イルカは１０～２０分のセッションごとに、何度も何度も学んだ芸を繰り返す。しかしＯＫは出ない。ディスコミユニケーションは双方に多大な緊張と負荷をもたらす。調教師とイルカ、セラピストと患者、教育者と生徒、親と子、その片方だけにストレスが掛かるのではない。重苦しい雰囲気の中で、イルカは１４回もその不毛な試行錯誤のセッションを繰り返した。

　ところが１５回目のセッションまでの休憩時間中に彼女は、見た目にも生き生きとして非常に嬉しそうな様子を体で示した。そして次のセッションが始まるや否や、いきなりそれまでにやったことのない８つの演技を丁寧に披露して見せたのである。しかもその内の４つは今までに観測されたことがないものだった。このメタ学習の結果、このイルカはある論理階型から１つ上の論理階型へと跳躍してみせてくれたのだ。素人の目にもそのイルカが新しい学習＝コミュニケーションを達成したことに対して興奮し、嬉しそうに泳ぎ回っているのが分かった。このコミュニケーションの裏にはイルカと研究員との相互信頼があったことを記すのは蛇足だろう。水飛沫にきらめく陽光やイルカの喜ぶ声も伝わってきそうなエピソードである。

　１つの論理階型から一段高い論理階型へのステップは単一の経験、もしくはコンテクストだけからでは不可能である。互いに異なるコンテクスト、この場合では自分の行動とその結果が異なる２つ以上のコンテクストを比べることによって、試行錯誤の末に新たなる上位の規則性が認識できたのだ。私たちの世界の見方、世界観もまた同じことが言えるのではないだろうか。過去の経験や規則はメタ学習のための元にはなるが、それにのみ固執すると現実はパラドクスだらけになってしまうだろう。

　パプロフの実験で有名な犬は条件反射の代名詞のように物言いされている。しかし実験は今にして思えばその結論しか導き出せないセッティングであり、犬の反抗やハンストやノイローゼ、また逆に犬の従順な気質など重要なファクターがみんなこそげ落とされている。あの禅寺の野良猫は腹を空かせつつ、今日も夕刻にはじっと待っているのだろうか。自分の在り方が間違っていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノウハウしか学ぶことができない。動物は１度体で覚えたことはなかなか変えられない。…そして人間も？蒙昧な宗教的確信、頑固一徹な信条、変容への恐怖。それは静かな発狂へと続く。生きるということは正気を保ち続けるということでもある。メタ学習は先ず自分の変化を自分に許すことから始まるのだ。