（６２７）平均律と新しい地平

　平均律が正確でないことは充分知っているが、しかしこの音律自体以外でも、演奏や再生においても様々な歪みが発生する。コンサート会場の位置や音響機器による歪み、録音・再生装置によるバックグラウンドのカットと純粋化したことによる歪み、聴取空間や壁などの構造による歪み、そして私たちの耳の中での歪み。しかし私たちの耳はその不正確に歪んだ音程を聞いても、それが平均律で加減したための歪みなのか、それともまったくの調子外れから来る歪みなのか、あるいはその双方の混合なのかを判断できる。聴覚系の驚くべき能力はそこには存在しない完璧な純正さ、正確さ、自然さの空間で鳴っている音楽に限りなく近づけて再構成することすらもできるのだ。

　純正律派は平均律で調整されたピアノで演奏された曲を聞いて嘆息する。その音が不快だからではなく、快いからである。もちろんどうしても隠し切れないうなりを耳は感知できるのだが、あえてそれに意識を集中することはない。５度や４度のひずみは聴き取れない。長短３度のひずみはそこはかとなく分かるが、調律が良いとそのうなりは３和音の中で互いに相殺しあうのか、純正のように聞こえてくる。不協和は全体に公平に薄められるが、これが結果的には全体に軽く透明な感じを与えている。ピアノの発明と平均律の調律によって私たちはその音をとてもきれいだと感じている。不純で不正確で不自然なところに音楽の喜びを見出している私たちは、昔の純正な音程を求めていた精神に比べて堕落したのだろうか。それともその不自然なピアノの平均律が私たちの音楽をいつのまにか今までになかった地平、新しい次元へとつなぐ扉を開いたのだろうか。

　西洋の中世の大学では音楽には３つの形があると教えていた。心身の調和が奏でる「ムジカ・フマーナ」、天体の調和が奏でる「ムジカ・ムンターナ」、そして楽器が奏でる「ムジカ・インストルメンタリス」だ。私たちが直接聞くことができるのは３番目の音楽だけだった。そして当時は音楽の中に妥協や折衷や調停というものを受け入れることはできなかった。現在の私たちはその音楽を３つのカテゴリーに分ける世界観に縛られてはいないし、音楽に完璧な調和と秩序を求めるという観念と衝動にも捕らわれていない。かといって無秩序の中の自由というわけでもない。私たちは平均律に不満を感じる権利もあれば、それに従わねばならない義務もない。しかし私たちの耳は本当に平均律に騙されているのだろうか。

　私たちはここで新しい反転が起きていることに気づく。数学的に正確に割りきれる純正な状態から、数学的に正確にずらしたことで立ち上がる新しい秩序とハーモニー。人間は完全無欠のものより少しだけずれたものの方を好む傾向がある。感覚的にも論理的にも。人間の合理性と完全無欠の調和の統合のために人間が創出した平均律は、私たちをこれまでにはない新しい方向に前進させつつあるものであるようだ。しかしいったいどこに導いていくのだろう？

　秩序と調和の完全無欠な音楽と、地上の人間の不完全な音楽を１つにするためには、水平方向の二元論的対立を統合してそれを垂直方向に超越していかねばならなかった。そして今完全と不完全という上下方向の二元論的対立を統合するためには、その界面を反転して、新たなる地平をさらなる垂直方向に立ち上げねばならない。空間を歪めつつ互いに引き合いながら存在している物質に満ちたこの世界において、この電磁気的傾きを流動的に維持することで生命活動を保っている肉体を持ちながら、純正と不純、完全と不完全、自然と不自然という垂直的二元に更に直交する未知の方向に向けて…。おそらく私たちはその過程の中で、私たち自身の中に「新しい耳」を創出していく必要があるのだろう。