ところで実はほとんどの楽器は温度によってその音高が変化する。それは温度によって音速度が変化するためで、高温時は高速になる。オルガンや管楽器のフルー音管は温度が１度Ｃ上がるごとに約１／５００ずつ上がる。したがって国際的標準高度は２０度Ｃで＜ａ'＞が４４０Ｈｚだが、オルガンや管楽器のフルー音管類の管楽器においては、１５度Ｃだと＜ａ'＞は４３５Ｈｚであるということにほぼ等しい。それに対してピアノは温度による変化が少なく、１度Ｃ上がるごとに振動数は約１／１００００下がる程度である。演奏が佳境に入って白熱してくるとしばしば音高が上昇するが、これは温度と湿度が原因であることが多い。それにしてもこの音高の上昇の元、つまり温度と湿度の変化の第一原因が演奏者たちの呼吸であるという事実は、なんと生き生きとしたパラドクスなのだろう（※）。

　バリ島のガムラン音楽とケチャの踊りを勉強しに行っていた友人が何年かぶりで戻ってきていた。打ってすぐその鉄琴部振動を手で止める特殊な奏法の打楽器を、彼女は現地で自分の師に選んでもらって購入した。そして微妙な気圧と湿度の変化でも変形してしまうというその楽器は、急激な温度や気圧の変化がある荷物室では耐えられないだろうからと、機内に持ち込んで大事に抱えながら日本まで運んできた。そしかしれでもやっぱり一部が割れてしまったと言う。湿度や温度の異なる日本ではどうしても本来の楽器の音が出ないというが、そのすこし現地と異なった音で今彼女は勉強している。また別の旅行好きの友人はアフリカから特大の打楽器を土産物として購入し、やはり機内持ち込みで持って返ってきていたが、やはりあの地で聴いたような音は出なくなっていると言う。さらに別の友人はミュージシャンなのだが、シタールのような複雑な弦楽器を自分の演奏用に購入してきた。しかしやはり元の音は出せず、かといって日本仕様の楽器としても使えないと言っている。

　逆に日本古来の楽器を海外公演などで演奏する時も、細心の注意をして楽器をメンテナンスするという。小鼓などの張り子系は特に微妙で、絶え間なく皮の部分の湿度を保つために湿らせていても、時間の経過と共にその音が変わってしまうらしい。もちろんそれは海外に行かなくても同じことで、その日の湿度や温度や天候で音の伸びや色や響きが微妙に、しかし明らかに異なってしまうので苦労すると鼓師から直接聞いたことがある。そして何より気になるのはこの音を聞く人間自身の鼓膜などの繊細な聴覚器官だが、これらは楽器たちと違って、主観音なども含めた自らの恒常性によってその微妙なずれや偏性を修正するとはいえ、それでも行く先々で異なる風土や背景音などの環境特性を強いられていると言うことだ。

　同じ世界観を共有するということは、「空間を共有する」ということである。この表現はかなり抽象的だが、実際に同じ場で同じ音楽を聴こうとすれば、目には見えないが実際に存在する物質としての空気の振動を共有しなくてはならない。空気の振動によって音色も異なってしまうのだ。楽器の振動数が変わりうるのみならず、それを聞く人間の聴覚特性も変わりうる。では何に基準を求めるか。絶対音感か、チューニング用の音叉か、基準発信音か。物理特性に基準を求める時、その物理基準すらも極端に変動するならばどうすればよいのだろう。尋常でない環境下の高音、低音、高圧、低圧、電磁波の嵐の中…。物理特性が変化した時の、それでも存在する変わらない音楽的本質とは何なのだろう。それは過去の訓練の賜物というよりはバランス感覚であり、時空に対する人間のとても幾何学的な能力であるような気がするのだが。

（※）実際に人間の存在による湿気はばかにならない。エジプトではギザの大ピラミッドの内部は、最近の観光客がもたらした湿気によって崩壊の危機に陥っているという話で、学者の中には観光客を内部に入れる事自体を禁止すべきだと主張する意見もある。なお当の大ピラミットや周辺建造物は、３０年前にナイルの上流にアスワンハイダムを作ったことによる作用も含め、ここのところの異常気象で雨の降らない砂漠の地に雨が降り、現実として石灰岩が内からも外からも侵食されている。数千年もしくは１万年以上の時を貫いて存在してきたスフィンクスもここのところの人間の人口増加の結果として、住宅地が接近しており、また生活廃水によって地下水が上昇して、内部から崩壊の危機にあるという科学的報告もある。