#142　歯が痛いのは廃頽的精神なのか

■歯科医療に携わっている方々には申し訳ない限りだが、私はここ30年以上歯医者さんのお世話にはなっていない。歯科に限らず医療施設一般に患者としては足を踏み入れていないのである。別に現代医学を憎んでいるわけでも嫌いというわけでもない。ただも大病や大怪我をせずに生きてきたということだ。歯医者のお世話にならないからといって、虫歯がゼロで健康な歯というわけではない。ただ歯痛に悩まされなかったということだ。

■ところがである。この春の水が温み始めかけた頃、なんとなく怪しい感じが顎の辺りに感じられた。この感覚は何だったかなと意識し始めながら食事をした、歯から直接脳に激痛信号が爆走した。無頓着な私の歯はかなり虫歯だらけなのだがずっと無痛を保っていた。その平安が突然の頭蓋骨マグニチュード７．８の激震である。死火山ではなく休火山だったことを失念していたン十年。奥歯が欠けたのだった。ズキズキズキズキ夜も眠れず。

■痒いところは我慢していてもつい掻いてしまうように、眠っていても無意識に舌の先でその奥歯の端を触ってしまう。痛いかどうか確かめて、やっぱり痛いと安心するのである。朝起きるとズキョンズキョンに痛みは増量中。誰に話をしても早急に歯医者に行くのが一番と言われるので、小動物のようにじっと耐えて動かない何日かが続いた。有無を言わさぬ苦痛激痛は時には良いものだ。特に身体感覚に疎い私のような者には新鮮である。

■もう少し痛みが強くなったら仕方がないから歯医者に投降しようと思いつつ、潜伏する春先の日々。痛みのある身体部位に意識を集中すると、その痛みはなくなると言うが、あれは真っ赤な嘘だ。多分苦痛と共生している人間もいると思う。それにしても痛みを忘れて上手いものに齧り付き、右の奥歯が強くそれを噛みしだいた途端、顔が歪むかと思うほどの直下型激震発生。失神すらできやしない。一生このままだと発狂するなと思った。

　　　

■とりあえず嫁さんにケロリンをもらって飲んだ。歯痛に効くのか、これ？「痛・生理痛・歯痛に…」ああ、知らなかった、確かにそう書いてある。痛みは茫洋と顎の辺りにこびりついたままなりを潜めた。鎮痛剤はそこに痛みがあるのにそれを遮断しているという不安がある。翌日薬屋に走った。18歳の頃１度お世話になった「今治水」を買った。友人は当時、神経を焼き殺すとか言っていた。２回ほど直接つけてみた。痛みは消えていった。

■かみ合う歯が１つもなくなって、食事が味気ないと言う友人。虫歯を自分で抜いていたら、上の歯が全部なくなってしまったという有機農法の友人。私はまだ当分平気だろう。その後２週間ほど、カバンの中に魔法の「今治水」様を潜めていた。これでだめなら意を決して歯医者に自首するしかないと思っていたが、このまま時効になるのを待つ、その場しのぎの犯罪者の方を選択。極悪人は安眠できないと言うが、多分歯痛でだと思う。

■最後に歯医者の世話になったのは20歳の時だった。私はサッカーの試合でゴールキーパーをしていて、ドリブルでボールを持ち込んできた相手フォワードのフリーシュートを防ぐためにペナルティエリアの端まで飛び出して行った。足元に飛び込んだ私の顔面を、相手のキックが直撃。血が出て奥歯がぐらぐらになったけれど、そのまま試合を続けた。試合後やむなく歯医者に行った。麻酔をかけられて顎も頭もバカになったような気がした。

■ここまで書いた時、やはり欠けた奥歯を行きつけの歯科医院に治療に行っていた嫁さんが帰ってきた。ちょうど今歯医者ネタをブログに書いている言うと、シンクロが嬉しいのかダジャレを連発した。「歯痛い的精神。」「あ？廃頽的精神てこと？」「あ、それは頽廃だ。」「た、大敗？」「ワールドカップで歯医者復活せん」「ないよ、敗者復活戦は」「ジーコジャパン１次リーグ歯痛い。」「おいっ、そのダジャレは禁句だっ。」

■やれやれ。…いや、もうオシム・ジャパンだし、中田引退だし、歯噛みすることもないだろうから、どうでもいいか。なおこれは余談だが、荒川区の日枝神社には、江戸時代に虫歯の痛みに耐えかねて切腹した清兵衛の話がある。私はどんなことが有ろうとも歯痛そのもので死ぬことはないとずっと思ってきたが、耐えかねての自殺のセンは確かにアリだろう。歯痛に悩む者にとって、千住の歯神として有名らしい。

2006.07.07 Friday