#093　水滴に 記憶滲むや 時の肌

■駅のホームから雨に滲む街のネオンサインを見ていて、昔やっていたアルバイトの先輩を思い出した。見ていたネオンサインの流れる文字は「８時から９時まで5000円ポッキリ、完全マンツーマン制。９時以降10000円から…」。キャバレーの広告だった。私が30代の頃、ビルの外壁修理の特別な工法をする会社のバイトを短期間したことがある。ある日そこの先輩がキャバレーに行こうと私を誘った。給料日だった。

■その先輩は私とそう年は変わらないのだが、社会に出てからの経験は大先輩だった。私を気にいってくれていた彼は「今日は俺が奢ってやるから心配するな」と強引に街に繰り出した。私は性産業全般を否定するつもりは毛頭ない。しかし自らはお金を払ってその恩恵（？）を蒙ることはなかった。それは今も変わらないのだが、強く拒絶しない優柔不断系の私は、それとなく付き合って早々に退散しようと思った。

■今の私なら某お笑いタレントの「えい、えい、オッパイ〜!」という掛け声に唱和を求められれば照れることもなく声を出せるが、当時はもう少しだけシャイだった。もっとも手も足も出せないくらい萎縮するでなく、そこの女の子達を不快にさせない程度の会話や手出しはするけれど、情欲にせっつかれることはなかった。先輩はなにやらぐいぐいとビールを煽り、こちらにも飲め飲めと勧めるのでかなり飲んだ。

■12時近くでもう電車がなくなるからと店を出ることにしたのだが、会計でその先輩の給料袋がかなり薄くなったことは確かだった。飲まされてかなりボられたと言いつつ、それでもご機嫌で横浜方面の電車に乗って帰っていった。私は成人男性としての能力に欠陥はないけれど、アルコールで朦朧とした意識は、先輩のような人に対して哀れみや共感とは異なる温かさを感じつつ、自らの異質さも自覚するのだった。

■そぼふる雨中を進む電車の中で、私は20代の頃に造園系のバイトをした時の監督のことも思い出した。草地や植え込みを整備するのだが、与えられた仕事をこなせば早く終わってもすぐに帰って良かった。直行直帰だ。広い空の下で緑や土を扱う仕事で結構好きだった。普段から優しくテキパキと仕事をこなすこの監督は、給料日にソープランドに行って女の子を抱くことだけを楽しみに生きていると言っていた。

■このような仕事をしながらも、人間は様々な問題や欲求を抱えつつ日々を送っているわけだ。この監督は月末になると、昼飯時などにその時のことを嬉しそうに話すのだ。嫁さんも子供も田舎にいる事なども、話の端々から伺える。私は自分がお金を出して女を買うことは、一生しないのだろうと感じていた。個人的信念や社会的倫理感からではなく、自分にとって無理に身を染めなくても自然のままに生きていけるだろうと。

■この話にはオチはない。ただ個人と社会と人間関係とのあわいには、優しさだけでは変わりにくいものや、逆にお金で解決できない問題などが、人の様々な想いや情念を纏わり付かせながら流れ漂っているということを、しのつく雨の湿気が私の心の中にまで入り込んで想起させてくれたということだ。車窓のガラス上で身をよじりながら１つになって滑り落ちていく水滴たちは、一体どこに辿り着くのだろう。


▲そういえば私は見合いも就職もしたことがないんだなあ。今までの試験やテストで失敗したのは二十歳くらいの頃の原付免許のペーパーテストだけ。問題の裏の裏読みで墓穴を掘ったもの。これが結構トラウマになって、未だに車の免許どころか原付の免許すら持っていない間抜けな私である。(←ここは笑っても良い事実です、はい。)

2006.05.19 Friday