#057　思ひ出や 雨も朧に 花筏

■半日ぽっかりと時間が空いたので、かつて十数年間ほど住んでいたことがある吉祥寺と井の頭公園に行ってみた。このあたりは東京駅界隈からは微妙な距離にあるのでなかなか訪れる機会がないまま十年ほどが経ってしまっていたのでずっと記憶の中の街だった。感傷や憧憬を求めてではなく、現在の街や人波とのあわいでそのずれと干渉波を味わってみたかったのだ。

■おぼろな記憶と圧倒的現実のギャップから「ここに居る自分ははたして本当か？」などという哲学的思考の体感ができると思っていたが、町並みの佇まいや人波のありようなどは変わっていなかった。小雨に濡れけむる公園や、昔のボロアパートすらも記憶とほとんど大差ない。若葉も見える桜木が最後の花びらを舞い散らし、黒土の上や池の水面はうっすら桜雪。

■公園の道沿いに井の頭公園駅まで歩き、駅前商店街にあるセレスティーヌというカフェレストランに入る。一部で有名なかつてハンダコーセン氏がバイトしていた店である。一時、詩人の河村悟氏も近所にギャルリ・ウィを構えて活動し、この店にも顔を出した。私もなぜか常連客だった。突然の訪問にも関わらず、マスターやおばちゃんたちは大いに歓迎してくれた。

■常連客が昨日会ったばかりのように「よう、元気か｣と言い、帰るときもまた明日会うかのように「じゃあまたな」と言ってくれたことが何かとても嬉しかった。何も変わっておらず、むしろ今でもここに自分の居場所があるということに、逆に不思議な戸惑いと距離感の喪失にめまいを感じてしまう。通常の時間感覚と常識の何と脆いことか。哲学的ではなく詩的な時間。

■十年余りで人間だけが歳を取った。小学生だった子供たちが今では成人して就職していたり、仲の良かったカップルが結婚し、さらに離婚までしていたりして。このお店はよくＣＭやドラマ撮影などで本陣（本部）に使われたり、有名人がオンやオフで訪れることもある。現在もオンエア中の某生命保険会社のＣＭや育毛剤のＣＭなども、この店やその外で撮られたものだ。

■時間の流れは整理できるものではない。お店の人たちに再訪を確約して、また公園に向かう。雨に濡れ桜も終わりの井の頭公園は、遠く近く煙ったようにかすんでいる。おぼろな過去の記憶も不変の現実感の中で逆ににじみ、記憶の遠近感をまさぐるように歩き回った末、いせやの焼き鳥を１人で食べつつビールでもと、店の前まで来たところで時間を止めた。今が記憶。

■さて名古屋に戻り、明日からはまた真剣に翻訳作業にとりかからねば。

on 2006.04.12 Wednesday