168bite

　３日目にして天気は晴天。中津川と天降川の合流点に架かる妙見大橋の上からの眺めはちょっとしたものだ。このあたりに集中しているホテルや旅館や湯治宿から、掛け流された湯が惜しみなく川へ流されているのを見ても、この地方の豊かな湯量が分かる。入道橋近くにある斎藤茂吉の歌碑の横を通り、中津川上流方向に歩き続けると、やがて民家の横の川べりに「和気湯」が見えてくる。今から１２００年前の奈良時代に弓削道教に都を追われた和気清麻呂が、再び都に呼び戻されるまでの日々をここ妙見の地で過ごしたと伝えられる。その清麻呂が腰掛けたという岩が、今でも湯が沸き続けているこの和気湯のそばにあった。３方をただそれとなく囲われただけで脱衣所もない和気湯は、２坪もない湯船が真ん中で２つに分けられている。周囲に誰もいないのでそそくさと服と靴を脱ぎ、とりあえず入ることにする。

　湯はこの地方の湯特有の緑がかった黄色で底が見えないため、恐る恐る足を入れて深さを確かめてから身を浸してみる。湯温はぬる目だが、木漏れ日がこの湯面にきらめいて眩しい。静かに手足を伸ばそうとすると、尻や腕に沿ってぷちぷちと何かが上がってくるのを感じた。足元から気泡と共にぷくぷくと湯が湧いているのだった。静かだ。ひとくされ湯に浸かってから服を着てあたりを眺めると、すぐそばに掲示板があった。そこにはこの湯が梅雨時期の濁流に飲まれているところと、水が引いてから近在の人が泥やゴミを取ってきれいにしている写真があった。現在この湯は個人の所有であり、好意で一般に開放しているのだということを知り、ひっそり置いてある寸志の入れ物に小銭を入れる。

　そこからさらにそばを流れる渓流沿いの遊歩道を登っていくと、杉木立の間に落差３６メートルの「犬飼の滝」が見えてきた。道の果てにある最後の巨岩を越えた途端、思わず「わあ」と声を出している自分がいた。この滝壷の美しく深い青がはっとするほど神秘的だったのだ。滝とただ１人対峙する時、そこはもう人間界ではない。何度も何度も重力線に沿って落下してくる水の塊を目で追う。自分の意識も何度も一緒に緑青の滝壷に落ちる。デジカメを構えてベストアングルを探しながら滝壷の前の大きな岩たちの上を飛び移っているうちに、だんだんとこの滝に対する畏怖のような感覚が体に染み入ってくるのを感じた。

　しばらくしてそろそろ宿に戻ろうと思い、「どうもありがとう」と声に出して会釈をした。踵を返して数歩ほど歩くと、突然滝の方から背中に風が強く吹くのを感じた。おやっと思って振り向くと、その風に煽られた水煙に光が煌いたからだろうか、滝壷の上にくっきりと虹が出た。それにしばらく見とれてからもう１度礼をして坂を下り始める。ベンチのある水際の広場まで来てから最後の一瞥のつもりで振り返ると、今度は滝の真上の青空にくっきり白い半月が掛かっていた。「如何なるものでもちゃんと接すれば正しく帰って来る。」…そんな言葉が頭に浮かんだ。証拠を提示するつもりも必要もない自明の理だとは思うが、それでも心が温かくなるのを感じながら帰路についた。

画像のキャプション
　　　上右：竹で作られた塀に囲まれた和気湯。脱衣所はなく、ただベンチがひとつそばに据えられている。
　　　下左：遠くから眺めても近くから見ても、人気のない犬飼の滝はどこか神秘的だ。右は最後に見えた虹。

テラバイト日記（１６８）20030212-1