 近所に長い紐で繋がれた白猫がいる。由緒ある血筋であろうことは、その姿よりも顔つきと振る舞いからも予想できた。いつもいつもその猫は、玄関先で紐に繋がれてじっとしていた。しばらくの間私は、その白猫に感情移入したつもりで、飼い主は酷い扱いをするものだと勝手に憤慨していた。
ある日ちょっとしたことで、その白猫はポッポという名前だと知った。白い鳩に似ているから「ポッポッポ、鳩ポッポ〜」のポッポちゃんというわけだ。そしてこのポッポは生れつき記憶力が弱くてすぐ迷子になってしまうから、飼い主がしかたなく紐で結んで飼っているのだと知った。
その他にも灰色の猫やしまとらの猫たちが、よくこのポッポと一緒にいるのを見かていたのだが、実はその数匹はみな兄弟で、ペットショップでの売れ残りだった。まとめて薬殺されてしまうところを飼い主が不憫に思い、引き取っていたのだった。私は飼い主に対して勝手に立腹していたひとりよがりの自分が、とても恥ずかしかった。
昔、ドラマで「なんで俺なんか産んだんだよぉ、生まれてきてこのかた、辛い事ばかりで何も良いことなんかなかったぜぇ」と親を呪い罵るシーンがあった。お気楽能天気でない限り、軽重の違いこそあれ、誰しも成長する段階で似たような思いを持つ時期があるのではないだろうか。
 しかしいかなるプロセスを踏んだ結果だとしても、現実世界に生まれてこなければ、その苦境や苦痛を呪うことすらできはしない。なぜ生きているのか、死ぬとはどういうことなのかというような問いを発し、その意味を探求しようと努力することはもちろん、ナンセンスであると言うことすらできないのである。
若い頃２０歳より向こうに長生きする者の気持ちなんて、想像できなかったしし、ようとも思わなかった。生きる価値があるかどうかなんて全く分かりもしなかったのだ。しかしだから自らの生命を安直に絶つというのは、私の実験精神に反していた。生きる価値があるかどうかは、取り合えず生き切って見なければ分からないではないか。
自らの意思と自然の摂理の狭間で生き切ってみて、それでやっぱり生きることに意味がないと宣言する者の言葉はそれなりに重いけれど、半途な生き様なのに事故や病気で自らの人生を呪い悲しむだけの者に、生きることが無意味だなどと決して言われたくはない。
生きとし生けるもの達が、細胞や器官や感情や精神の震えるように繊細でかつ揺るぎもしない大胆さを持ちながら、目の前に存在していることの奇跡。その気絶するほどの神秘が織り成している自分というもの、そして他者というもの、世界というものの在りようを理解できるならば、いかなる小さなものですらも、悪意を持って傷つけ消滅させようとすることが、どんなにがさつで野蛮な行為であるか想像できるだろう。
人間の都合で殺されかけ、また人間の行為で救われて、その自らの生命の在りようすらも忘れてしまっているのだろうか、今日も白猫ポッポは庭先の草むらに紐をつけてしゃがんでいる。感謝も呪詛も、そしておそらく様々な記憶もないままで。今日も兄弟猫たちが寄り添って眠っている。
  
私はこのポッポとどれだけ違った存在だと主張できるのだろう。生きる価値があるかどうのかを判断するためにとりあえず生きてみるという、自分自身を使った人体実験を終えていない私は、この白猫を見て、可愛そうだとか幸せだとかと、いったいどれだけ言うことができるのだろう。その紐の向こうの優しさをちらりと垣間見るようなこともなく、見えない首輪と紐に繋がれているのは私の方なのではないだろうか。
私は幸せでも不幸でもない。悲観論者でもないし、快楽主義者でもない。ひとりよがりの王国の王様にして、たったひとりの住民である。しかしその自らの意思でその国境を超えようとする時、自分自身の好みが分かる。どちらと言ってもいいからこそ、こう言えるのだ。私は嘆き呪うよりも笑い寿ぐ方が好きだし、過去を愁れうよりは未来を創る方が好きである。これは他者への押し付けなどではなく、単なる私のテイストなのだ。
今日も陽だまりに猫が溜まっている。眠る猫たちは何を思い、そして何を見ているのだろう。その張り切ったひげを震わせて風が吹き、そして後ろに抜けて行く。その作り物のように白い毛が眩しい。その芝生の近くにゆっくり座り込んで、私は静かにシャッターを押す。猫達はかすかに目を開けると、着いて何事もなかったかのようにまた静かな眠りにつく。遠くで発情した春の猫の大声がする。
（※）画像のキャプション
上右：道路から見た、玄関先の庭で紐につながれている白猫ポッポの後姿。
中左：真冬でも芝生の上の陽だまりの中で眠るポッポ。寒い日は玄関の横にある小屋に入る。
下左・中・右：同じ庭にいるそのほかの猫達。左から黒太郎一家、ポッポの色違い兄弟、仲良しの菊次郎。
テラバイト日記（６５）20020208
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