（６７２）ピアノ・フォルテの平均律国債

比は一種のメタファーであり、物の形を見定める方法の一つである。−−アニタ・サリヴァン

　「ピアノ国債」というのを知っているだろうか？多分誰も知らないだろう。これはある精霊が私に持ちかけてきた変な経済の話なのだから。ことの起こりは忘れもしない１９９２年５月１日。私が平均律のことを考えながらピアノに向かっていると、音の狭間から精霊が滲み出てきてた。人間社会に影響された妖精の国にもセールスマン、いやセールスレディがいるらしく、そいつはいきなり熱心に妖精の国の国債ファンドについて説明を始めた。

　「人間界の経済というものを分析した結果、〈数〉と〈時間〉に還元されると分かりました。そしてその基本思考はタイム・イズ・マネー。でも私の国ではタイム・イズ・アートなんです。そこでわれわれもピアノ国債というものを作って、まずはモニタリングしてみる事になったんです。」
　「え、国債って一体どこの国の？」
　「音の妖精の王国のですよ、決まってるじゃないですか。」
　「そんな国知らなかったな。で、なんで私なんだろう？ピアノの平均律のことを考えていたからかなあ。」
　「任意抽出なんですけど。個人的シンクロニシティなんていうのはそんなものでしょう。で、どうします？興味ないんならほかを当たってみますけど…。」
　「ちょっと、ちょっと、じゃあとりあえず話を聞かせてよ。」

　その説明によると、そのピアノ国債というものはこんな具合だった。投資は元金の２７万５千円ぽっきり。年利５．９４６３％の複利計算。そして８８年国債。この利息そのものは、不景気な昨今悪い話ではない。しかし８８年などという長期ものだったら、終了時にはとうに死んでしまっているではないか。私がそれを指摘すると、そいつは羽根の生えた小さな身を乗り出して言った。

　「実はここからが肝心なとこなんですよ。『神仏界の１日は人間界の１年』ってご存知ですか？」
　「ああー…、『あの世の１日はこの世の１年』とかって話なら聞いたことあるけど、宗教のためのたとえ話だろ？」
　「本当なんです。そうして同様に精霊界の１年が人間界の１ヶ月に対応してるんです。」
　「そんなの聞いたことないなあ。」
　「はい、あまり知られていない事実です。しかし私はこの時間の流れの違いに着目したんです。つまり、私たちの国債ファンドを人間界で買っていただければ、１ヶ月ごとに１年分の利息がつくわけですよ。分かりますか？ということはですね、人間界の１年１２ヶ月で妖精界の１２年分の利息が付くってことなんです。」
　「ちょっと待てよ、２７万５千円で利息は５．９４６３％の複利だとえーと…」

　電卓で確かめてみると毎月５．９４６３％の複利で、１年１２ヶ月で元金が２倍になる計算になることが分かった。しかしそれなら人間の１年が１日に過ぎない神仏の世界に売り込みに行けば、あちらの１日で元金の１２倍になるじゃあないか。私が神仏界に国債を売り込みに行くという手もあるぞと考えていると、私の考えを読んだのかその妖精は言った。

　「いやあ、神様や仏様は慈愛や叡智を人間に投資することはあっても、金もうけなんて興味を示しませんよ。私たちの国では逆に経済をアートにという発想が高まってきているんですがね。」
　「大丈夫なのかなあ、そんなので国債ファンドとかやっちゃって。」
　「まあ、騙されたと思ってやって見て下さいよ。私たち妖精には人間を騙すほどの智慧はありませんけどね。この８８年国債なんですけど、人間界ではわずか７年と３ヶ月の間だけ元金を預けておけばいいんです。」

　７年と３ヶ月がわずかかどうかは分からないが、私は２７万５千円をはたいて契約した。マルチ商法のように他人を巻き込むわけじゃないし、なによりその華奢な妖精の長い銀の髪と愛らしい姿が気に入ったからだ。それ以降、私が気に入ったその妖精はグレゴリオ暦の毎月１日に現在の金額を報告しに現われる。元金を預けた翌月にはもう２９万１３５２円になっていた。わずか１ヶ月で１万６３５２円の利子加算である。３ヶ月目には３０万８６７７円となり、すでに３万と３６７円増額していた。このハイペースで利息はどんどん加算されていき、ちょうど１年後には早くも元金が２倍の５５万円になっていた。まあ、確かにこんなにうまい話は聞いた事がない。

　ところでそのうちに毎月その妖精が報告をした後、必ず小さな袋を残していくことに気が付いた。その袋の中には何も入っていないこともあれば、金属や石ころが入っていることもあるのだ。そこである日、その袋のことを聞いてみた。

　「あー、精霊の国と人間界をリンクするために、開始からの毎月の合計月数と原子番号とを対応させてるんですよ。」
　「原子番号って、あの水素とか酸素とかって、元素周期律表の上に並んでるあの番号のこと？」
　「そうです。この次元の物質的裏付けがないと、せっかくのピアノ国債も現実化する事ができないんでね。リンクした後はもう不要なので、記念にってプレゼントしてるんです。」
　「おいおい、ちょっと待てよ。毒物とか放射性元素とかヤバいものまで置いていくってのか？」
　「大丈夫。人間に害を与えないよう完全コーティングしますから。まあ気体元素のパックの方が苦労しますけどね。」

　そして契約期間も半ばが過ぎた４年後の年末にはすでに４４０万にまでなっていた。ところでピアノの調律師たちが最初に音を合わせるのは４４０ＨｚのＡ、ピアノの左端から７ｘ７＝４９番目の鍵だ。その頃にはもうピアノ国債という名称が正式には「ピアノと同型対応型の平均律複利国債」の略だと分かっていた。平均律で調律されたピアノの隣り合う２鍵はすべて、その振動数比が１：12√２になっている。つまり２の１２乗根分だけ常にすぐ右のキーの音高が高く設定されているのだ。そう、このピアノ国債の投資元金である２７万５千円は最左端のキーの振動数２７．５Ｈｚであり、月々の利息の５．９４６３％の複利というのは２の１２乗根１．０５９４６３０９４…の累積関係に対応している。そして音の妖精の国の８８年、すなわち人間界の７年と３ヶ月定期というのはピアノの８８鍵、７オクターブと３音というわけだ。私にとっての１ヶ月とは白鍵・黒鍵を含めたキーの１つ右への移動であり、１年とは１オクターブに同型対応するということなのだ。

　人間界の８８ヶ月は妖精にとっては８８年。私が７歳とちょっと年を取る間に、あいつは１世紀分近くの年を取る事になる。妖精は長生きをするというのはそういうことなのだろうか。しかしその間にも神仏界ではたったの７日、１週間しか時間が経っていないとしたら、この相対時間とは何なのだろう。５年後、もしくは第５オクターブのＡは８８０Ｈｚだから、私の妖精国債は８８０万円になっていた。この値はピアノの８８鍵の１０進法ホロンでもある。投資金額は６年後には１７６０万になった。７年後には３５２０万になるだろう。これは最初の元金２７万５千円の、実に２⁷（＝１２８）倍である。ところで３５２０日は２０水星日だ。この間に地球上では３５２０回太陽が昇り沈みするけれど、月面では１２０回しか日は昇らず、水星上ではたった２０回の昼と夜に過ぎない。妖精の国と人間界と神仏界の関係も、案外こんなものなのかもしれない。

　１９９８年１１月７日。このピアノ国債が始まってから６年と６ヶ月と６日が経った日。私は２０００年まであと５ヶ月を余す１９９９年の８月１日になれば、８８ヶ月が過ぎて４１８６万円が手にできるが、その後はどうなるのだろうと椅子の上でふんぞり返りながら考えていた。すると本棚から突然１冊の本が落ちてきた。「ピアノの歴史」というビジュアルな本だった。床の上で開かれたページには、ピアノが現在のように８８鍵になるまでに様々なピアノが実験や試作も兼ねて制作され続けたというくだりと、１台のピアノの写真が載っていた。それは８８鍵の左端にさらに５鍵が付けられたしろものだった。この５鍵は倍音を響かせるためにのみ存在し、普段は５鍵だけ専用のふたが別に掛けられていたというしろもので、今でもまれに使用されているらしい。それを拾い上げた途端、私の頭の中に美しく閃くものがあった。

　そして１９９８年１２月１日。妖精は原子番号７９の金の塊を袋に入れて現われた。彼女が現在のピアノ国債は２４８９万１５９円になりましたと言うが早いか、私は５鍵が余計に付いたピアノの写真を見せながら質問した。

　「さっそくだけど、質問があるんだ。このピアノ国債はオプションがつけられないのかな。」
　「何か不都合なことがありましたか？まさかこの期に及んで金利を上げろとか言うのでは…。」
　「とんでもない。オプションといっても、時間的な意味なんだ。８ヶ月後の１９９９年８月１日に迎えるピアノ国債の満期を、この写真のピアノのように５ヶ月分先に延ばすことはできないかな。」
　「はあ、それにしても一体なぜ？」
　「実は個人的シンクロニシティがあってね。特別にあと５ヶ月を加えることができると、満期が最終的には２０００年の１月１日になるってことを、この写真のピアノに教えてもらったんだ。」
　「ははあ、ちょうどグレゴリオ暦の第３ミレニアムにシンクロするってわけですね。なーるほど、面白いですね。妖精王に相談すれば、どうにかなるとは思いますよ。」

　妖精によれば２種類のオプションがありうるらしい。１つはこの＋５鍵のピアノにちなんで元金をマイナス方向に逆算し、その差額を今返却してくれるというもの。元金はこの＋５鍵のピアノの最左端の２０．６０１７Ｈｚにちなんで２０万６０１７円となる。そして２９万５千円との差額８万８９８３円を今ゲットして、契約の金額を手にする時期を年末まで伸ばすというものだ。そしてもう１つのオプションは、元金と利息計算はそのままで満期を５ヶ月伸ばすというものだ。そうすると最終的には５２７４万余りになるわけで、わずか３ヶ月待つだけでさらに１１１５万４千３百円ほどが加算されるということだ。もちろんここは目先の８万８９８３円よりはわずか５ヶ月余計に待つだけで１１１５万４千３百円増える方を選択するに決まっているだろう。

　そしてついに２０００年１月１日。満期がやってきた。たかだか２７．５万元金の９３ヶ月債で５５８７万６５１７円を手にすることができる。まさにこの物質界次元はタイム・イズ・マネー。物質界万歳！自然界万歳！…となるはずだった。しかしそこにはハイリスク・ハイリターンとは別の落とし穴が待ち受けていた。何という事だ。知っていたらオプションなぞ採用しなかったのに。これはやはり詐欺ではないのだろうか。いや、『妖精には人間を騙すほどの智慧はない』と言っていたではないか。私の自業自得だろう。欲をかいたというのもあるかもしれないが、むしろ２００００年初頭に同期するというあのシンクロニシティに美を感じたつもりだった。そういえばあの精霊は『個人的シンクロニシティなんてそんなものでしょう』とも言っていたっけ。

　この次元の自然界に対応する元素を毎月の末に送ってくれていたようだが、それだけではなく実は毎月この次元と音の妖精の王国をリンクしてケイザイを現実化するために、元素周期律表から原子番号にそって元素と共に現実化していたらしいのだ。そして１９９９年１２月１日に９２番目の元素ウランを用いて現実化した後、最後の９３番目に自然界に存在する元素を用いて５５８７万６５１７円を現実化しようとして、あの精霊ははたと気がついたのだ。この私たちの次元の自然界には元素は９２番目のウランまでしか存在しないということに！８８＋５＝９３。私もこんな簡単なことに気づかなかったなんて。あのシンクロニシティのおかけで毎月膨らんでいく金額を、最後の最後で物質を介して現実化できなくさせてしまったのだ。

　あの精霊が最初に姿を現し、また最後に消えていったピアノは、２０００年の元旦に自ら約束を果たせないことを恥じるかのように、轟音を立ててひしゃげて潰れた。内側に向けて爆発したかのようだった。死んで詫びたというわけだろうか。次元の狭間の１つへの通路が絶たれたわけだ。音の王国と人間とは、脳を介してつながっているというが、そこは一体どのようなところなのだろうか。それにしても今回の出来事が結局２７万５千円で体験できたということは、ある意味では経済的だったのかもしれない。実際にあの後、ピアノ国債の話をまったく耳にしないので、精霊は経済活動を諦めたのかもしれない。

　音の妖精の王国では『タイム・イズ・アート』だと言っていた。そこは数と形と時間が高度に幾何学的配置を持った空間らしいのだが。音楽もまた時間の上にある。妖精の世界に響く音楽とはどのようなものなのだろう。「地球には地球の音が、そして人間には人間の音楽が。」いつか妖精が笑いながら言っていた。「妖精界、人間界、神仏界の共通言語は数なんです。翻訳するのは比。多次元時空においてスケールの違いはないんですよ。」私の、そして人間界の２０００年以降ははたしてどのようなものなのだろう。それにしても今ではあの精霊の美しさだけが思い出される。