landred

　夢はいつも途中から始まる。夢の世界には同一地平での因果律がない。始まりがなく、終わりがあるだけだ。自分がその中で確かに息づいた夢は、現実に等しい体験だ。夢の中で至福の感情に満たされたり、不変の真理を発見するに及んでは、現実以上の強烈な体験として生命に刻み込まれる。しかし目覚めと放心の後で、結局は夢だったのだと自覚するからこそ、人間は正常に生きていけるのだ。人間は眠っている間に発狂するのだ。きっとそうだ。精神病院の患者達の多くは、その睡眠中の夢の中で、発狂したに違いない｡そして案外彼らの夢はずいぶんと正常なのだろう｡

------タンタロスの妻の股間に宿る限りなき悲しみ。熟れ切るでなく萎え切るでもなく、緋に燃える罌粟（けし）が不倫を教えない限り、タンタロスのように終わりのない苦しみを味わい続けなければならない。今日も休むことなく、なすべき苦行を続けているであろうタンタロス同様に。

------女神のような月姫が両手に色とりどりの花を抱えて、気の遠くなる昔から飽くことを知らず秋波を送っている。花は褪せることなく輝きを放ち、月姫の色香は凋む術すら忘れたようだった｡

------その美しさにぼくは思い余って手を差し伸べた。月姫はそれに答えて両手をいっぱいに広げた。花たちはきらりきらりと輝きながら四方に飛び散った。ぼくはその胸の中へ飛び込もうとしながら、月姫が求めるように平行に延ばしたその手の先を見てぞっとした。

------ぼくは声を限りに恐怖の叫びをあげた。しかし空気は妙に生温かく振動するだけで、声を伝えはしなかった。そのうちにそのぬくたい振動は調律するように唸りの数を減らしていき、やがて月姫の指間たちの痙攣とその周波数を一致させた｡

------からくも逃げ込んだ洞窟の中で、ぼくはようやく一息をついた。その洞窟のずっと奥でタンタロスらしき男が、永劫の仕事を続けているのが霞んで見えた｡

------突然、その洞穴の四方から青白い岩漿が煙のように棚引いて音もなく流れ出した。それは僕を円の中心に追い込みながら、じわじわとその輪を縮めながら迫り来ていた｡僕の純潔は風前の灯火だった。ぼくはまた叫んだ｡音にならない声を限りに、喉も張り裂けよと絶叫を続けた｡沈黙の世界で、僕の脳内は錯綜する恐怖の大音声でいまにも爆発しそうだった。

------そして僕の喉は張り裂けて、喀血した。その夥しい量の真っ赤な血は天井向けて吹き上がり、四方に散りながら緋罌粟となって舞い降りてきた｡そのまっ赤な花たちは、淫らな岩漿に触れると、あっという間に蒸発した｡

------洞窟の入り口からは、神聖なまでにまばゆい光が差し込んできた｡ぼくは感動に全身を貫かせながら、無心に涙を流した｡次から次へととめどなく涙を流した｡

　その神々しい光はカーテンの透間から射し込んできた朝陽たちだった。ぼくの枕も頬も涙でびしょ濡れだった。体にはまだあの感動の嵐が残っていて、血流のなかで泡立っていた。気がつくと、胸の上には仔猫が白い毛の先を逆光で光に変えて座っていた。その青と茶色の神秘的な瞳でぼくをじっと見詰めていた。ぼくはぞっとした。この飼い猫は雌だった。ぼくはその仔猫を、あどけない顔をした淫らな少女のように感じた。白猫の媚びるような鳴き声が、だんだんとぼくの恐怖心を愛猫心に取って代わらせていった。

　「夢の終わりを恐れる少女の時代は終わった…」とぼくは思わず口を動かしていた。その意味を全く考えることもなく、まるで夢の残汁のように、その言葉は舌の上を滑って声になった。ぼくは勝手に動いた唇への驚きと、夢と違ってちゃんと声を出している喉への安堵を同時に感じた｡言葉の意味を反芻しながら、ぼくは今度は意識してひとり言を言った｡「夢の終わりを切実に祈るような、そんな夢もあったんだ…。」

　ぼくは猫を抱き上げて、その小さな鼻面を軽くなで上げてみた。それから二本の白い前足を左右に摘み上げて、あからさまに迷惑顔する仔猫にウサギのダンスを踊らせた｡それからぼくはカータンを開け、ガラス窓を繰った。外は飛び切りの上天気で、涙は乾いたがまだウサギのように赤いぼくの眼に、太陽は惜しげもなく金の矢を放ちつづけた。両手を広げて伸びをする。眼下ではいつもと変わらない町並みの風景が輝いている。さっき見た不快な夢はもうほとんど忘れ果てていた。外を見ていた白猫が、窓辺から部屋に向き直って床の上に飛び降りた｡その着地した畳の上には、風でどこかから飛んできたのだろう、緋色の罌粟の花びらが落ちていた｡