《２》魑魅魍魎との約束

　数字をいじくり回したその結果から、「10進法」と「月−地球−太陽」のひとつの関係を垣間見た思いがした。「数」という抽象概念は、この物質世界には存在しない。そしてそれは「数える」という認識行為と共に、人間が長い長い時間をかけて獲得したものだ。現代社会ではその何十世紀も要した認知方法を、わずか数歳のうちに体得してしまうのだが、その「数」と「数える」能力とは、個々人の脳細胞や自我の中にあるのではなく、ほかならぬ人間の意識の総体の「場」にある共通認識であり、共通財産だ。
　したがって数に関する事も含む新たな発見とは、特別な才能のある個人のみが独力で成し遂げるのではなく、人間の意識の総体に支えられ、持ち上げられて達成されるに違いない。現在の地球の生態圏（バイオスフィア）に支えられて立ち上がろうとしている精神圏（ヌースフィア）へと歩を進める事も、人間の意識の総体として、全体で相転換するのであって、おそらく抜け駆けや先走りは許されないだろう。

　まだ全体像を表していない「数」の世界は、その精神圏で見いだされる事を恍惚としながら待っているだろう。そしてそれを人間の共通認識として発見しゆく事は至福であるに違いない。そうなれば地上の悲惨さはなくなるのではないだろうか。そんなふうに考えていると、感情の津波がやってきた。数を考えるために無意識の内に自ら制御していた感情の大波が、体の内側から堰を切ったように溢れ出してきた。それと同時に、さっき見たホームレスの人達の事が思い返された。
　ホームレスの人達に対する同情、いや共感と一体感が体の中から沸き上がってきた。彼らは決してやる気のない敗北者などではない。人間関係や社会性を放棄した無力感の吹きだまりの亡霊などではない。一度はがされたら２度とくっつかない、乖離したかさぶたなどでは決してないという強い思い。
　自分もひとつ間違えばああなっていたという安堵と差異の感覚ではない。彼らは今と異なる生き方をしてくれた私そのものなのだという、論理的ではないが強烈な不二感で一杯になった。もう数についてそれ以上考えられなかった。いや、もうその時はそれ以上考えなくても良かったに違いない。

　生化学者ならば、脳内をエンドルフィンのような化学物質が大量に生成され、また体中をアドレナリンその他が駆け巡っている状態とでも診断してくれるかもしれないが、私は歩きながらそのまま人間の総体と自分とが、ホロニックに同じものであるという実感のただ中にいた。そして地球と自分とは全く別個のものではなく、次元が違うだけでフラクタルに同じものであると実感した。指先がじんじんぴりぴりしていた。大地に対して垂直に立ち上がる自分を感じていた。
　私は行き交う人達、すれ違う人達に心の中で声を掛けていた。酔って赤ら顔の疲れた中年のサラリーマンに、眉間のあたりに悩みを刻み込んでいるＯＬに、お揃いの破れたジーンズをはいた若いカップルに、眠りこけている赤ん坊を大事そうに胸に抱える母親に、一生懸命生きているすべての人に、「頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ」と無言で叫んでいた。
　私の体から目に見えない触手のようなものがその人達に伸びて、肩を叩き、背中をさすっているような感覚だった。そしてその事自体で私はみんなから逆にエネルギーをもらってすらいるのだという事に気づいた。

　好奇心と冒険心と探求心から始めたアクティブホームレスという擬態生活が、もはや擬態ではなく生活になってしまった。宿無しであってもなくても、人間トランスポゾンはできる。もはや生活の上でアクティブホームレスという反語的概念がなくなっても、心はいつも旅をし続けるだろう。
　本当にたくさんの友人・知人にお世話になった。そしてたくさんの人達と新しく知り合いになれた。物質的にも精神的にも、こちらが与える事ができたものの何十倍、何百倍のものを与えてもらい続けてきた。こんな私に自らの時間を割き、時間の共有をしてくれたからこそ、その共有してくれた時間の総体として今の私があるのだと実感する。そしてさらにこれからもたくさんの人達と巡り会い、知り合うだろう。
　今度は私の番だ。ただそばにいるだけでも伝わるものがある。友人たちが訪ねて来ても、心和めるようなスペースと時間と余力を持とう。そして自分のためにだけでなく研究をまとめ、また想いを創作のエネルギーとしていこう。

　「そんな事をいっても、まだすぐそばの人との約束ひとつ果たしていないではないか？お金はどうするのだ？」心の中の魑魅魍魎がまた不安げにささやく。それすらも否定しない。その声もまた私だ。
　私は心の中の魑魅魍魎と約束をした。必ずみんな引き連れて未来に行くと。決して何も切り捨てたりはしないと。だから魑魅魍魎もまた、私の行く道を邪魔しないし、非力ながら助けてくれさえする。またそうする事によってのみ、私の心の中のそれらは自己反転して昇天するのだ。
　自分の心のネガティブな部分が成仏するというのは妙な表現だが、それは決して私の中のみのものではなく、内側では他の人達やものたちともずるずるにつながっているのだから、そういう言い方もあながち間違ってはいないだろう。ネガティブなというのは、決して良い悪いの２元論的に片方というのではなく、自他共によりよい未来の方向を指向する生命ベクトルか、現状維持・過去の保全にやっきとなる生命ベクトルかという事だ。

　それ自身が同じままではポジティブもネガティブに変容してしまう。これは伝統や常識に似ている。伝統とは過去の遺産を維持していくだけではなく、それを乗り越えるべく新しいものを生み続けていく事だ。その変革し続ける精神の中にこそ、伝統の本質がある。新しい常識もまた世界を作って行く。しかしそれが長いこと続くとやがて世界を止める方の力に成り下がってしまう。
　魑魅魍魎とはＤＮＡ上におけるプログラム上の書き換えを拒否する現状維持の固着振動とも言えるし、強固になり過ぎて却って支障を来し始めたホメオタシス(恒常性)システムとも表現できる。また今の私の直前までの、私の総体とも言えるかも知れない。
　まだ魑魅魍魎と化していなかったそれがあったからこそ今の私は私でいれる。それには本当に感謝してもしたりない。であればこそ、自らの意志でのＤＮＡの書き換えや上位へのシステムアップのための土台となる魑魅魍魎であってほしいものだ。小野満麿と名付けられたところの私の総体が、常にその私を超えようとする時、それ以外の全てである「私」の中に魑魅魍魎が喜んで消えて行けるように、その２者の界面であり、また双方でもある<私>は頑張ろうと思うのだ。