両側を山で囲まれている田圃は、ちょうど田植えが終わったばかりで、水を張った状態だった。普段は土であるところが水で覆われていて、陽光の反射率や電位などが変化しているせいだろうか、土地全体が瑞々しく爽やかだ。そんな中を大町から松本に向けて南下する事ほぼ30キロメートル。
　車で松本城の外を廻って、リーコちゃんとアサリちゃんの共通の友人の、クロちゃんがやっている鯛焼き屋さんで一服した。その後、小麦のふすまなどを購入してから、アサリちゃんのお母さんを見送るべく、長距離バスのターミナルへ。お母さんはお土産を抱えてバスに乗り込むと、元気に新宿に向かって行った。

　その日は５月中旬にしては陽の光も強く、とても暑い日だった。分かれて買い物をした後、待ち合わせ場所の松本駅前の広場で、その少し傾いた日差しに晒されて私は考えていた。普通の人間は、自由に使えるお金が五百万円ある時と、五千円しか握り締めていない時とでは、明らかに意識状態が違う。とてもおおらかになったり、今後どうしたらいいのだろうかと心配で眠れなくなってしまったり。
　私にはもう手元に１万余円しか残っていなかった。金が無ければ、アクティヴに動き回れなくなり、必然的にパッシーヴにならざるを得ない。これまでも何度か、資金が限りなく０に漸近するというピンチがあった。しかし「必ずどうにかなる」という、何の根拠もないが揺るぎない信念と、楽天的なヴィジョンを持っていたせいだろう。その都度必ずどうにかなってきていた。
　今やそれすらもマンネリのきらいがあると思い始めていて、そのパターンくずしを意識のどこかで求めていた。そしてきっとそのせいでだろう、「何とか」はならなくなってしまってきていると感じる。それははたして悪い事なのだろうか？

　アクティヴ・ホームレスがアクティヴでなくなったら、ただのホームレスになってしまうのだろうか。もしそうなったら、それまでやって来た事、考えて来た事も無に帰してしまうのだろうか。そもそももっと楽天的で、愉快なノリのものではなかったのだろうか。それなのになぜ、今になってこんなにも急に、不安にかられ始めているのだろう？
　実のところ、無意識の内ではずっとそのような事を考え続けていたのかもしれない。そういえばアクティヴ・ホームレスという生き様をやめた後の事など、真剣に考えた事もなかった。確かに何事にも終わりはあるものだ。しかしこのように不本意かつ不可避的に、経済的先細りで消え入るように終わってしまうのだろうか。それとももはや、このような人体実験を終了する潮時なのだろうか････。

　帰り道。アサリちゃんの軽自動車は、山の端に日が隠れ、だんだん夕焼けに染まっていく空の下をひた走っていた。私は後部座席でうつらうつらしながら、ネガティヴな考えの中に入っていく自分を感じた。
　この車のガス代だって、温泉の入浴代だって、さっきの鯛焼きのお金だって、日々の食事の費用だって、私は何も出していないではないか？自分では人体実験と称して楽をしながら、いつの間にか他人の行為に感謝する気持ちも薄れ、あれこれしてもらうのも当然というような、尊大な態度になっていたのではないか？お金が無いから無い袖は振れぬという手前味噌の論理から、いつの間にか大切な人達の負担になっているのに気づかない、吝嗇な大間抜け野郎に成り下がっているのではないか？
　そんなふうに、半歩ずつ半歩ずつ、この辺までなら足を踏み入れても平気なのではないかという、ネガティヴな思考の領域に入り続けていると、ついには胃がちくりと痛んだ。考え過ぎで胃が痛むというのは、とても久しぶりの感覚で新鮮だった。多分10〜15年ぶりぐらいだと思う。 しかし止せばいいのに、さらにその痛み具合を意識しながら考えていくと、自分の今後は真っ白で、もしくは真っ暗なので、おなかの具合が悪くなって来てしまった。これはいかんと慌ててよい方向に考えようとしたけれど叶わず、心の中はこの夕焼けの空のように暗くなりゆく一方だった。

　その夜私は、アサリちゃんとヒロミちゃんの夜中の散歩について行きながら、みんな優しくて良い人達なのに、そんな中で自分は何と孤独なのだろうと感じていた。山中の闇は目の端に粘り付くように濃く、頭上の星々の光も林を抜けては差し込まないので、懐中電灯を持たない私の足元はおぼつかない。これまでもずっと、おぼつかなかったような気がする。
　それでも木立の切れ目に立てば、空には満天の星。私は北斗七星を見上げて、自己憐憫や自己不信が愚かな行為だと知っているだけましだと思いながら、夜の寒さに思わず身震いした。暗闇の中にぽつんと立つ、うなだれて薄暗い光を放つ裸電球のついた、寂しげな電信柱。

スペクトルの月17日/ＫＩＮ２５　　／950518THU　or 19950518