《６》新緑の中の葛（くず）温泉

　ネマガリダケの薮が落とす影のそばに、大きく伸び切ったゴボウがその葉を広げている。その上を熊蜂が自分のテリトリーを守るかのように、ずっとホバーリングしている。
　昨日のパーティーにもかかわらず、みんな７時には起きて早々に食事を取り、裏の畑に種を植える作業をしているところだ。ベノアはすでにバイクで仕事に出掛けていった。夜は山の上なのでまだ寒いが、雲ひとつない空を抜けてくる日の光は暖かい。隣の桑畑越しに見える日本アルプスが美しい。
　私は蒔いた種の上にジョウロで水をやると、ネギの畝の雑草を取る作業に専念した。何とも言えず、のどかな午前のひとときだ。このような楽しい作業も、繰り返していればいつかマンネリのルーティーンワークに成り下がってしまうのだろうか。
　今日はアサリちゃんのお母さんが、松本から高速バスに乗って厚木に帰る日だが、その前にみんなで、大町から高瀬川沿いに10キロメートルほど山に入った所にある、葛(くず)温泉に入りに行く事になっていた。

　地元の道に詳しいリーコちゃんが運転する車は、新緑とよく似た凄い黄緑色の水をたたえる大町ダム沿いの道を軽やかに走っていく。やがて谷にかかった陸橋を渡ると、目の前に標高２６４７メートルの餓鬼岳がせまってくる。長いトンネルを抜け、仙人岩の横を通るとやがて葛温泉が見えて来た。 平日のまっ昼間から温泉に入りに来る男性はなかなかいないようで、ここでも私は露天を一人独占状態となった。
　迫り来る萌木の山を見ながら、さわやかな５月の風と、穏やかな山の陽光と、程よい温度のお湯の中で思いきり体を伸ばす快感。　ややこしい事を云々するのは後にして、ただリラックスするのも才能のひとつかも知れない。横幅10数メートルもあろうかという大きな岩に登ってみると、その先は河原につながっていた。

　この温泉は一応男湯と女湯は別れているが、露天ではアバウトにつながっていて、その気になればいくらでも覗けるし、それどころか行き来が可能な作りになっている。女風呂の方のお湯は熱くて量も少なくて浸る程ない言うので、どうせ他に客もいないし、せっかく来たのだから、私一人で独占させずに、男の方の露天に入ったらどうかと私は言った。
　リーコちゃんもヒロミちゃんもお母さんも、別に混浴に関してはこだわりを持っていないのだろうが、アサリちゃんは何やらサイババ関係の戒律だかで、異性と触れ合う事はなんとかかんとかと言っていたから、私は一応気を使って、トイレに行くからゆっくりどうぞと言って１度露天を出る事にした。

　内風呂でゆっくり体を洗い、脱衣所でいいかげん時間をつぶした後、もう１度露天に浸かろうかと思って行ってみた。すると先程の大きな岩の上にみんなで登って、ポーズを取ったり伸びをしたりと、しっかりそこでくつろいでいるので何か入りにくくなり、また脱衣所に戻ってしまった。
　もし万が一ほかの男性客が入って来ようとしたら、走っていってそれを伝えるために見張りしなくちゃ、と自分に訳の分からない事を言い聞かせながら。実際のところ混浴の露天風呂では、入ってしまえばなぜか男性より女性の方が大胆になる傾向があるようだが、これは一体なぜなのだろう？

　どうやら女性軍は退散したようなので、私は最後にもう１度ゆっくり露天に入った。裸のまま光の中にいるのも、お湯の中にいるのと同じように気持ちの良いものだ。東京では一生懸命仕事をしている人達がいるわけだが、凄くやる気に満ちて働いている人以外の方達は、実際のところ何をしているのだろう？そして私もまた今ここで何をしているのだろう？
　アクティヴ・ホームレスそのものも知らぬ間にマンネリになり、日々の日常生活とは異なる刺激や目新しさそのものにも、新鮮な意識で接する事があまりなくなって来ているとしたら････。ただ現実からの乖離ではなく、その未来と現在をつなぐための人体実験ではなかったのか？初心忘るるべからず。初心忘るるべからず。その気持ちを奮い立たせながら、眩しい新緑光の乱反射の中で洗いたての服を身に纏い、葛温泉を後にした。

スペクトルの月17日/ＫＩＮ２５　　／950518THU 　or 19950518