Ｏ氏は昼前に目覚め、外に食事をしに行こうと言った。会話はちぐはぐだが、拒絶感や独善的なところはなかった。ただとても時間に追われて焦っているようだった。このグレゴリオ暦２月３日の節分の日が自分にとって特別な日であると、彼はずっと以前から言明していた。
　時間の感覚が明らかにずれている。時計が刻む共通の機械時間が決して正しいとは言いたくないが、それでも半時間のうちにコーヒーを数杯も注文するのはやはりまともではない。私が話をしてもその内容はよく分からないようだし、彼の話を聞いてもやはり何を言っているのか理解できない。言葉の全く通じない外人と一緒に過ごしているような感じだった。ただ心配している事は分かっていて、なんでそんなに心配しているのかは分からなくても、うるさがらずにいてくれているようだ。

　Ｏ氏の意識が通常と違う態なのは、顔を近づけてみればすぐ分かる。頭を30センチメートル以内に寄せると、その空間はよじれているような感覚を受ける。意識がぐい〜んと曲げられて引きずり込まれてしまう感じになるのだ。頭の中だけは地球の重力方向と別の重力加速度がかかって、別の方向に向けられるような、そんな感覚・・・。
　この実感はなんだろう？５感ではなくもっと異なる意識の平衡感覚が、時空の歪みとして認識するのだ。人間の認識の形がそのようにできているのだろうか。強い方の思念の波に共振するのか、いいかげんな意識で近づくと、頭の中が引っ繰り返されるようにねじ曲げられて、その内側の世界に巻き込まれてしまうような気がする。「重力とは人間の総体の意識が作っている」というＢＯＢの言明も、何か体感として分かるような気がする。

　昼過ぎにはマヤ通のトール君＆イヅミちゃんもシェルターに来てくれた。そういえばＯ氏自らシェルターと言っていたのは、東京の空気の振動があまりにも重くて耐えられないので、隔離された地下の仕事場を避難所と名付けたのだそうだ。
　人間の脳波はドラマを見たり感情の起伏が激しかったりする時はβ波で、平常時や瞑想をしているような時はα波が出ているというのはよく知られているが、α波はβ波の中では容易にβ波に引っ張られてしまう、と以前Ｏ氏が言っていた事がある。都会の空気振動はβ波に満ちているから、感受性の強い人や優しい人には耐え難い空間に感じられるのだろう。

　このような意識状態の人には、心配して側にいられる事が理不尽な監視として感じられ、うるさがられるという事も、トール君たちはよく知っていた。しかしＯ氏の優しさを知っている彼らもまた、決して見捨てはしない優しさの持ち主だ。マヤ語の『イン・ラケチ』(In Lak'ech)､「I am another yourself〜私はもう一人のあなた自身です」、という言葉に含まれる優しさ･･･。
　 トール君は自分の資料その他を抱えてきていて、そこの机のひとつを借りて翻訳作業を始めた。イヅミちゃんも自分のイラストや原稿もあるのだろう。２人共忙しいのに駆けつけてくれたに違いない。しかも決してなんの代償も求めるわけではなく、その時一番したい事をしているに過ぎない事の素晴らしさ。私はこの二人が大好きだ。

　明日は立春。あと40日足らずで、40年来のマヤの研究家にしてドリームスペル創始者のホゼ＆ロイディーン・アグエイアス夫妻が初来日する。日本ではホゼたちと最も懇意な友人である高橋夫妻。私は彼らにドリームスペル・キットをギフトされて以来、マヤの事に限らずたくさんの情報と資料、そしてインスピレーションを与え続けてもらっている。本当にありがたい事だ。
　夕刻にはマミちゃんが戻って来た。私は前日から眠っていないのであとは任せて、原宿のイシヤンのデザイン事務所で眠らせてもらう事にした。地下鉄の中でうとうととしながら、私はまた、戻って来なかったＹの事を回想していた。

　あの時から数年後に突然Ｙから電話があって、再び吉祥寺に顔を見せに来てくれた事があった。「以前はお世話になりました」とわざわざあいさつに来てくれたのだが、私は元気な姿が見れて嬉しかった。今思うと恐らく病院から外出が許されるくらいには回復した状態だったのだろう。しかし面と向かって話をしていると30分程までは正常だったが、それ以上になると段々と言動がおかしくなってきた。しまいには全く落ち着かなくなって、ついにはあいさつもそこそこに帰って行ってしまった。
　私はその時どうして一言いわなかったのか今でも悔やむ事がある。「たとえどんな状況であっても、決して見捨てはしないから。いつでも決して忘れたりはしないから。どんな時でも変わらずに友達なんだから。」そう思っていながら、あの時はなぜ口に出さなかったのだろうか。彼は今、どこで一体何をしているのだろう。あの時言わなかった言葉を、私は今でも心の中で繰り返している。

　当時は気にもかけていなかったのだが、今思い出すと10年前にＨと連動していた彼の義姉も、精神の異次元に突入して尋常でない意識の時、さかんにマヤ人の事を言っていた。「壁の中から真っ白いマヤの人たちが現れては消えて行きよんしゃる。難しくて私には分からんごたるけど、あの人たち一生懸命何か話し掛けてきよらすと。」
　そのころはまだ私はマヤのことはほとんど何も知らなかったのだが、今思うとみんな深いところで繋がっているような気がする。このこともまた未来に回想すると、さらに多くの事と繋がっていることが分かるのだろうか。
　私の今後成したい事のひとつに人間の意識と時間・空間との関係を、次元垂上下的、位相幾何学的なモデルにするという事がある。もしそれができたならば、どこをどのように通って意識モードが変容し、また戻って来るのかがトポロジー的にでも理解でき、トレースできるのではないだろうか。それはまだ現時点では夢のような話なのだけれど。


　イシヤンの用意してくれた原宿の暖かい布団の中で、私は眠りしなにペンローズのツイスター空間における「ロビンソン同値類の視覚化されたヌル・ライン」の図が、私の「直交する虚実トーラスモデル」と同質なものとしてぐるぐる回っているイメージを見た。私の意識はその後、左回りに回転する力線に沿って睡眠空間に入って行った。
　その眠りの中で私は本当に久しぶりにＹの夢を見た。Ｙは東北の方の緑豊かな田舎の家で、一生懸命楽器を作っていた。今までにない音階に基づいた聞いたこともない音色を発するという、まったく新しい楽器を。