《１》変容意識の10年反射

　午前３時過ぎ、藤沢の留守番電話がなった。たまたま居合わせた私は、こんな時間に一体何事かと思いつつ受話器を取るとＯ氏だった。
　彼は既成の枠にはまって身動きの取れない世界観や、現実に沈殿癒着してしまった常識を刺激し、変化変容していけるように戦っている編集者だった。ほとんどいつも、物理的時間内でこなせる量の何倍もの仕事を抱えていて、時にはボロボロになりつつも、決して放り出す事なく頑張り続けていた。彼は心根が本当に優しいので頼まれたらなかなかいやとは言えず、それも仕事や約束が減らない理由のひとつだった。
　特に去年の秋口からは自ら強く望んでプロデュースした本を出版すべく、その翻訳チームを率いて頑張っていた。その彼が緊迫した声のまま、電話口の向こうから早口でまくしたてている。

　「････やばいんです。力を貸して下さい。急がなくちゃ、早く早く････太陽神経叢からエネルギーを発射して。ソーラー空間エネルギーを時空砲として発射して欲しいんです。そうしないと空間が閉じちゃって、人間と地球が次元を超えて繋がらなくなっちゃう。　時間がないんです。早く早く････」

　明らかに通常の意識状態ではなかった。しかし言っている事の内容には妙に引っ掛かるリアリティが感じられた。この感覚は確か10年前にも味わった事がある。私は強烈な胸騒ぎを感じて家を飛び出しタクシーを拾った。時刻表を見ると、前日22時40分大垣始発の普通列車・東京行が、藤沢を通過して４時４分大船発車となっていた。途中の踏切でその列車に追い越されたが、私はタクシーを急いで乗り捨てると、もう発車ベルが鳴り始めている駅構内を全速力で走ってそれに飛び乗った。
　ようやくシートにつくと足はがくがくし、目が回って内蔵が飛び出てきそうだった。突然の全力疾走からくる吐き気と不快感を和らげ、精神的に落ち着くために、私は窓越しの街明かりを数えながら深呼吸をした。やがてそのめまいと吐き気が収まると、私は列車の眠気を誘う振動に身を委ねつつ、これによく似た感覚を10年前の記憶の中に辿っていった。

　10年前、作詞作曲もするデュオとしてレコード会社と契約していて、デビューをねらっている２人の親しい友人がいた。都会的センスをペダンティックに表現しようとしていた、少しルーズだが優しいＨと、60〜80年代の音楽シーンを分析し、ストイックに曲作りをしていたＹ。しかし彼らは前後して共振増幅するように、通常意識とは別の意識次元に行ってしまった。
　私たちの日常生活の意識は、この広大無辺な多重多次元の海に浮かぶ頼りない小島であるとも言える。その私たちの共有している現実からは乖離してしまっている意識の異境から、Ｈはかろうじて戻って来たが、Ｙは戻って来れなかった。

　意識が変容すると時間の流れが通常と異なる超高速で流れるため、言葉を介してのコミュニケーションがあまりにも遅くてもどかしくなってしまう。返事をする前にもう次の事に意識が移っていて、会話がうまくかみ合わない。自分が通常の意識軸系から外れてしまっている事を意識できず、なぜ他の者が自分の言質や危機感が分らないのかという事が自らの内だけでは理解できないため、さらに困惑を深めていく。

　時には意識が光速を超えているためなのだろうか、通常の時間軸の系から見ると、結果が反転して原因より先に見えてしまい、その現実の前で立ち往生してしまっているのもよく見かけた。Ｈが銀行の現金自動支払い機の前で立ち尽くしているので、「後ろに並んでいる人の迷惑になるぞ」と注意したら、その場を離れた後で「何でキャッシュカードを入れる前から現金が出て来ているのか分からない」と、その自分だけにはまごうかたなき現実である現象の不思議さを私に訴えた事もあった。
　またすぐそばの人間だけを巻き込んで、何か尋常でない現象をその内輪の意識の上で起こす事もできたようだ。ある日Ｙが喫茶店の中で「今から地震を起こしてみるから」と言った。その後実際にそこのテーブルにはかなりの振動が生じて、グラスの中の水も溢れそうなほど波打ち、大きな金属のカサがついた頭上の照明もゆらゆら揺れていた。少なくとも私も含めた数人はそれを体感した。しかし驚いているほかの者を尻目に、周囲を見渡すと他の席の人たちはその揺れを全然感じておらず、何事もないように談話していた。
　それらはみんな意識が反転する界面での、数日〜数週間の出来事だったのだが。

　私はそのような意識変容からくる個人的な超能力や超常現象には、さほど興味を持たなかった。それはあくまで個人的体験や思い込みが、身近なものを巻き込む局所的現象だったからだ。しかしその意識がまだ現実と完全に乖離していない過渡期に彼らが話す、通常とは異なる世界観に対しては、私はより深いリアリティを感じ、またとても興味を持たざるを得なかったった。多次元多時間重層の一貫した、しかし未完成の宇宙論。

　Ｈの意識テンションはその後も漸近線的に高まって行き、ついにある日一度完全に現実から乖離してしまった。その前日、私は井の頭公園で彼と過ごしていて、自らの意志で人生を左右する重大な決断を、その場でせざるを得ない状況に直面した。
　奇妙によじれの混じった細かい振動と、それにオーバーラップするような様々な大きい振動に全身を包まれながら、今まで見たこともない怪異な踊りを繰り返し、ほとんど理解不可能な言葉を口走りつつ市街や公園を進み行くＨ。私は心配で、彼のそばをついて行った。どうするべきかとずっと考えながら。
　自分はなぜここにいるのだろう。このままではもはや回復する見込みがないＨの、明らかに奇異極まりない言質と行動を、私の生き方から切り捨ててその場を立ち去るか。それとも自分のためにではなく人間の未来のために敢えて新しい世界観を追及しようと、狂気の嵐の中で必死に何者かと対話している彼の生命ベクトルを信じて、最後まで付き合うか。
　誰にも強要されず、全く個人的な自由意志で決定する事が可能だった。しかし決断は即決。明日に延ばす事ができない状況だった。この目の前で起こっている事を、今ここで判断する事。そこから立ち去っても誰も非難はしなかっただろう。しかし答は最初から決まっていた。誰をも見捨てる必要はない。常識の中の停滞より、超常の中の未来を。
　その時の判断を悔いた事は今まで一度もない。

　午前４時44分、終着駅の東京に着き、そこから神保町方面に速足で向かった。Ｏ氏が自らシェルターと名付けて、昼夜も分かたず翻訳・編集作業をしている地下室の仕事場に入ると、彼は憔悴した顔でまだ机に向かっていた。
　Ｏ氏が飲み物を買いに行ってくれている間に、マックに向かっている翻訳チームのマミちゃんに様子を聞くと、私が電車に乗った後もあちこちに電話していろいろと話を聞いてもらったためか、今はかなり落ち着いているとの事。彼は仕事につきっきりで、ここのところ飲まず食わずしかも眠らず状態が続いているようだ。10年前、Ｈも自分はもう飲まず食わず眠らずに生きていけると公言し、何日もそれを実践していたのだが、加速度的に狂気に陥っていった事を思い出した。

　しばらくするとＯ氏は少し安心したのか、自らのイスの中で仮眠し始めた。随分不安な思いをしただろうマミちゃんが、電車が動き始めたので１度家に帰って眠りたいというので、とりあえず後はしばらく任せなさいと言って帰ってもらった。そして今、私はする事もなく、ただ側にいるだけの寝ずの番。いつもいつも、ただ側にいるというだけの私。
　Ｏ氏はイスの中に深々とすわったまま、いびきをかいて眠っていた。しかしふいと目覚めては「大丈夫だから心配しないで」と言って、またすぐいびきをかいて眠りこんでいだ。私はその時、これと同じ現象を10年前に吉祥寺のアパートで体験した事を想起して、その記憶の中に入っていった｡

　マンガの原稿の締め切りを翌日の朝イチに控えて、私は徹夜でペンを走らせていた。すると深夜、すでにかなり変容した精神状態のＨが訪れて来て、ちょっと休ませてねと言うが早いか、ベッドの上に横になった。そして数秒後には、もういびきをかいて眠っていた。
　しかし眠っているとは本当のところ、どのような事をいうのだろう。彼はいびきをかきつつ、しかも「すまんのう、わしは全然平気やけん、心配せんといてよかよ」などと話をし始めたのだ。さらにその後、明らかに見た目では眠っているのに、正常以上に深い議論をもしたのだ。私は人間にはこのような意識モードもあるのだという事を、机に向かいながら身をもって体験したのだった。
　原稿が仕上がるほんの２〜３時間前に、彼は「あーあよく寝た、ありがとね」と言うと、最後の追い込みでかなり朦朧とした私が「これからどうするの」と尋ねる間もなく、ふいっと立ち去って行ってしまった。その後、彼は井の頭公園の池に飛び込んだりして朝の通勤の人に通報され、多人数の警察官に取り押さえられて病院にぶち込まれてしまったと知らされるのは、爆睡していた昼過ぎになるのだが。

　このような精神状態の者に対して、私たちはただ側にいる事しかできない。ただ側についているという事。それすらも当時の私にはできなかった。後日、今度は、一緒にＨを見舞いに行ったりもしたＹがおかしくなり始めたという話を伝え聞いた。
　Ｙはその頃お姉さんに結婚話が出ていた事もあってか、家の者が周囲から隔離して外に出さないようにしているという事も聞き及んだ。私はマンガの原稿の締め切りや、自分の拙い宇宙論をまとめるのに夢中だった事もあり、多忙でなかなか吉祥寺から、京王線沿線にある彼の家まで出向けなかった。この原稿が上がったら連絡してみよう。来週になったら電話で様子を伺おうと思いつつ、家族の拒絶的な態度を思うとどんどん先送りにしてしまい、距離的な隔たりもあり、ずるずると時間だけが経ってしまっていた。

　そしてある日の深夜、Ｙが２階の窓から家を抜け出して裸足で失踪したという連絡が、イシヤンから入った。私は取るものも取らず最終電車で駆けつけ、Ｙと同じ町に住んでいたイシヤンと落ち合った。そして２人で深夜に自転車をこぎながら、当てどもなくあちこちと捜し回った。Ｈも回復したのだからいずれＹも回復するだろうとたかをくくっていた私は、その時ようやく自分の過ちに気がついた。
　あの夜、どこに行ったのか全く当てもない闇の中、これまた全く根拠のない直感で、私は多摩川沿いを下流に向かって歩いているだろうと確信した。そして数時間後、実際に川べりの土手で歩き疲れて眠っているＹを発見して連れ戻した。
　私はただ側についているという事すら、日々の雑用の中でできなかった事を、自分の落ち度だとは思わない。しかし10年たった今回も同じ事を繰り返したくはなかった。

　私は10年前にその他にも何人か、今風の砕けた言い方をすればイッてしまった人やキてしまった人の話を知っている。あの時期も個人を超えた多くの人間的な規模で、そのような特異な振動の位相が揃ったのかも知れない。間近でその振動のおすそ分けを幾分かくらったかもしれない私はその時、もし狂気に陥るとしても一気にではなく小出しに入り込んでいこうと思った。いっぺんに行くと過負荷のために脳神経は焼け切れ、身体は変調をきたし、意識は弾けてしまうからだ。｢愛は小出しに末永く」ということわざがあるが、「狂気も小出しに末永く」というわけだ。
　誰もがこの現代文明の社会が、正常でないとは知っているというのに、その解決方法が見いだせないままでいる。「この現実の世界が、実は狂気の世界であると知った正常な者は、その正常な反応として発狂する」というパラドクスがある。Ｏ氏や他のたくさんのピュアな人達のためにも、このパラドクスを警鐘とこそすれ、不変の真実としてはならない。
　私もそこの机で少し眠ろうと思った。しかし頭の一部が妙に冴えてしまっていて、眠れなかった。ただ側にいるという事･･･。

７(共振)の月25日／ＫＩＮ１８１　　 赤い共振の龍／Ｇ暦２月３日 　or 19959293