ＴＯＳＨＩさんは自分の小さな娘を連れて来ていたのだが、私はその子が退屈しないようにと、手を引いて散歩する事にした。公園の池を横切る七つ井橋を渡り、アクティブ・ホームレスを開始するまで住んでいたアパートに行ってみた。すでに別の人が住んでいるのだろうと思っていたら、そこにはまだ誰も入っていなかった。
　２階に通じる階段の途中に、時々餌を与えていた猫の一匹がうずくまっていて、私の顔を見るとニャアと鳴いた。私は嬉しいような悲しいような複雑な心境になって胸が詰まり、その猫の頭をグリグリ、ゴシゴシ撫でた。猫はゴロゴロいいながら動かない。「おとなしい猫さんだね。」とＴＯＳＨＩさんの娘さんも猫を撫でながら言う。

　ものごころがついた時から、いつもすぐそばには猫がいた。一番最後に猫と生活していたのは、やはりこのアパートだった。少し病気がちで、いつまでも大きくならない白黒の猫。名前をチッチーといった。マージャンの点数の付け方からのネーミングで、兄猫はクンロクという名前だった。兄猫は数カ月前に旅立って戻らなかった。
　そのチッチーはいつものように真冬の深夜、アルミサッシの戸の透き間からひょろりと出ていき、車に撥ねられた。悲鳴を聞いて外に飛び出した私は、道の端にぼろぞうきんのような塊を発見した。一見しただけでもう助からないと分かったが、まだ絶命していないその猫を私は抱きかかえて部屋の中に運んできた。 だんだん硬くなっていく体をマッサージしながら、私は何が起こったのか実感が湧かずに、ただ静かに見つめていた。
　口や鼻から体液が止まらず流れ出している。その猫が力を振り絞って長い鳴き声をあげた時、その冷たい空気を震わせる振動が最後の一声なのだと直感的に分かった。言葉にならない想いが私の身を包んだ。私はこの猫にできるだけの接し方をしていたので、ああしてあげれはよかったとか、これも食べさせてあげたかったなどという悔いは何もなかった。ただ何か夢の中にいるような気がした。

　そのままその横で朝まで眠り、目が覚めてから死後硬直で突っ張った亡きがらを、庭に深い穴を掘って埋めた。その日から窓辺で音がすると、反射的にアルミサッシの戸を開けてあげる癖が残っている自分に、何度も何度も気がついた。
　１週間後、ようやく物音がしてもアルミサッシに手を掛けなくなった自分に気がついたその瞬間、胸のところにマヒしていた感情が堰を切ったように溢れ返り、涙がどっと込み上げてきた。その時初めてあの猫が本当に死んでしまったのだという事実を実感した。
　そしてあの最後の一声を自らの内側でこう理解した。「私の死をつらがったりしないで、これを反転して生きる力に変えて！もし思い出して悲しむのなら、忘れてしまって！」
　私はアルミサッシの戸を大きく開け放ち、その言葉の意味を噛み締めながら何度も繰り返した。窓の外の植え込みの緑がゆるやかに風になびいていた。最後に抱き締めた時の感触が手のひらによみがえって来た。冬の弱日がその手のひらに温かかった。

　私は今でもたまにその猫の事を思い出す。胸の痛みと共にこう思い出す。「私は約束した。思い出すたびに、悲しむのではなく、素直に一生懸命生きるのだと決意し直す事を。」そして過去の思い出にこもるのではなく、あの猫を今でも愛しているがゆえに、この今から未来へ続く生き方のエネルギーとしようと繰り返し決心するのだ。ここにも反転の発想があると感じている。

　ＴＯＳＨＩさんの娘が私の袖を引っ張ったので、私はふとわれに返った。目の前の猫も私を無言で見上げている。私はその猫がガリガリに痩せていないのを確認してから、その頭をポンとひとつたたいて、みんなの所に戻る事にした。手を放すと猫がもう１度ニャアと鳴いた。