《１》本当の現住所 ●(満月)

　西新宿の超高層ビルの最上階から眼下の町並みを眺めた。ビルや家々がびっしりと立ち並び、点になって見えなくなるまで広がり続いている。これだけたくさんの家があるのに、どうしてこの中に私の家が、いや少なくとも部屋すらもがないのだろう。気を使わずに憩い眠ることのできるスペースがないのだろう。
　この事実に、論理や現実認識などとは別のところで、とても理不尽な印象を受けた。そして同時に、自分が今いる「ここ」がいつどこにいても、自分の本当の現住所なのだという実感がした。どこにも自分の所有する場所がないがゆえに、逆にいかなるところも自分のくつろげる場所でありうるという、一見パラドキシカルな、しかし重要な「意識の反転」が生じていた。

　いつでもそのような精神状態であるというわけではないけれど、この「反転」の感覚は結構気に入っている。少なくとも大地に国境線を引いたり、自分の土地の周りに境界線を引いたりして他者を締め出す事が、正当で自然な権利であると信じて疑わない生き方よりは、地球そのものとは親密な関係にある事は間違いない。

　確固たる郷里がある者は幸せだ。その人はそこに戻って行く事ができるのだから。そして、この地球上のいかなる場所も自分のホームであると勝手に思い込んでいる私自身もまたこの上なく幸せだ。どこにも戻って行く必要がないのだから。
　野ざらしの野垂れ死にと背中合わせでありうるという事も、いったん覚悟を決めてしまえば、その日暮らしの気楽さがあってかえって面白いのかも知れない。

《２》先達

　親しい友人が編集に携わっている雑誌に「アクティブ・ホームレス」という企画特集があり、その記事の中に詩人のＫ氏が登場していた。真冬の一番厳しい時期に、充足していた渋谷のマンションを畳み、友人・知人を尋ね歩きつつ対話して回るという厳しい生き方を選択し、それでも穏やかかつにこやかに実行している日々についての記事。
　それは止むに止まれぬ詩人の生き様であったのだろうか。どうしても宿泊の屋根を提供してもらえない時は、24時間営業の喫茶店で人間観察と自分観察をしながら、朝まで過ごした事もあったという。また雪の残る公園でアクティブという形容詞が付かないホームレスの人達と過ごした事もあったと聞いている。その他にもその命懸けで大変だった日々の様々な経過と結果について、当人から直接伺ったりもした。

　私が｢脂肪のひとかけらもない｣という形容を献上して敬愛するその痩身の詩人は、後日全273日の放浪生活の果てに改めて吉祥寺に居を構え、オープンマインド＆オープンプレイスなギャルリ・ウィを主催して、新たな次元の活動を開始する事になるのだが、そのアクティブ・ホームレスもしくは有志向型無宿流浪の旅の間に、様々な評論と共に『夢の仇』(ユメノアダ)という５部構成の長い詩集を書き上げている。

　しかし私の場合は別に悲壮な決意から、アクティブ・ホームレスという、自分を用いた人体実験を開始しようとしているわけではない。未知の自分自身への興味から始めようとしているのだ。思考の果てにというより、軽い躁状態ともいえる楽天的な意識のまま、自然にそうなっていったと言うのが、より正しいだろう。

　　　これまでの自分の物質的財産を放棄したらどうなるだろう？
　　　家具や電化製品や衣服から布団までを捨て去ったらどんな気持ちだろう？
　　　自分が創ってきた作品や、山積する資料を捨てたらどんな感じがするのだろう？
　　　帰るべき自分の空間がないとは、どんな意識なんだろう？
　　　自分を人体実験として扱う場合、その健康体は一体いつまで維持できるのだろうか？
　　　これまで築いてきた人間関係というものが真の財産であると実感できるのだろうか？
　　　友達はそんな自分を、今まで通り気を使わずに迎え入れてくれるだろうか？
　　　お金の代わりに自分は一体何を他者と共有できるのだろう？
　　　そのような未経験な状況下では、自分は一体どう感じ、どう思考するのだろう？
　　　初めて会う人々に対して、どれだけ真摯に接する事ができるのだろう？
　　　通りすがりの気に入った木陰で眠ったらどんなに心地いいだろうか？
　　　もし万が一野垂れ死にする事があっても、本当に笑って死ねるのだろうか？

《３》実践

　････そんな事はみんな、ただ頭の中で転がしていてもしょうがない。実際にやってみなくては実感も何もあり得ない。痛みと快感、暑さ寒さ、空腹と眠気、人恋しさや煩わしさなど、ただの概念や言葉でなく直接体験し、素直にその感想や悲鳴を残す事。そしてそんな中でもできるだけ楽しく面白くやって行こうではないか。

　もっとも個人的には生来財産や貯蓄を溜め込む方で、変化や転身に対しては非常に消極的なおうし座バリバリ人間だったわけだから、住居を引き払い、一番の財産だと考えていた少なくはない蔵書のほとんどを捨て去り、自分のアイデンティティであるとも認じていたそれまでの作品群を放逐し、家財道具はもちろん趣味やセンスの表現手段でもあった衣類すらも投げ出して身軽になるという事が、さほど躊躇や摩擦もなく自然にできたという事自体、個人的レベルではあるがやはりひとつの奇跡かもしれない。

　そして幾つかの好条件。作為的にではないが結果として、季節的にも一番楽な夏前に開始する事。藤沢の実家に自分の電話とＦＡＸを移して、そこの留守番電話を外からチェックすれば、今まで通りの連絡網は維持できるだろうという事。
　勝手な思い込みながら、私が状況を説明して遊びに行けば、嫌がらずに歓迎してくれるだろうという友人知人の心当たりが少なからずあるという事。それはこのような私でも、温かい理解と思いやりのある友人・知人に恵まれているという、本当にありがたい事実である。■

◆Original text was written on 23th,June,1994 in Gregorian Calendar.//and on 25th,Crystal month,Yellow Magnetic Seed year,kin:216 yellow Galactic Worrior,in Dreamspell Calendar.Full Moon◆